家康の最大の危機とも言われる神君伊賀越え。 宇治田原(甲賀)あるいは大和路経由で伊賀を通過し、伊勢の白子から三河に戻ったと言われています。伊賀越えの部分がよく話題になる一方で、伊勢から三河に戻るところはあまり描かれることがないと思います。 …
岡崎の伊賀八幡宮については冬の様子を伝えています。 しかし、伊賀八幡宮の見どころは、夏のハスです。 泥の中から美しく咲く蓮の花は、「厭離穢土欣求浄土」「戦で穢れた乱世を平和な極楽浄土へ変えよう」という家康公が旗印に掲げた願いに重なります。 伊…
築山稲荷@岡崎です。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康
以前、築山御前が暮らしていたとされる築山の位置について、このようなブログを出しました。 それに対して、築山御前が暮らしていた築山は、築山稲荷大明神がある場所ではないか、という問い合わせがありました。 その経緯について、以下のような解説を見つ…
五社・諏訪神社は徳川秀忠の産土神ですが、その北側には秀忠の生母である西郷局(お愛の方)ゆかりの心造寺、そして南側にあるのが五社公園です。 この五社公園の橋が、遠州出身の世界的造園家である中根金作によるものであることはほとんど知られていません…
岩水寺は、浜松市浜北区にある高野山真言宗別格本山の寺院です。 こちらにも徳川家康が、三方原合戦のおり、逃げ込んだという大木が伝わっています。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康
三方原の戦いの三方原。 磐田市出身の世界的造園家である中根金作の庭園として、磐田市の瑞龍山宝珠寺とともに、遠州地方で見ることができる庭園のひとつが三方原にある浜松工業高校の庭園です。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキ…
磐田市豊島(JR磐田駅の南)の瑞龍山宝珠寺は、創建1350年とされる名刹です。 日吉丸(後の豊臣秀吉)が浜松の松下屋敷にいたころ、 松下長則が宝珠寺に囲碁に訪れたとされます。日吉丸が供として、対局を待つ間、この宝珠寺本堂の廊下で寝ていたという言い…
龍秀院は、開創以来、一度も火災にあっていないという寺院で、多数の古文書が伝わっているということです。 「家康公ゆかりの里」徳川家菩提所とされています。龍秀院と徳川家康の関係については、龍秀院の中の立て看板のみが伝えています。 ランキング参加…
半田山龍泉寺。浜松市の浜松医科大学の北側にあります。 三方ヶ原合戦に敗れた家康が龍泉寺阿弥陀堂に隠れ、阿弥陀如来から「普済寺に火を放ち浜松城が焼け落ちてた様に見せかけ、犀ヶ崖に布の橋をかけ武田軍を欺く」軍略を授かったとされます。 ランキング…
富士山と家康(その4) 静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺、鉄舟寺。 富士山の景勝地として知られています。 もともとは、平安時代中期に久能寺として創建され、久能山の山頂にありました。1568年、駿河に侵攻した武田信玄によって、現在地に移されたと…
富士山と家康。今回は日本平からの富士山です。 東照宮(家康の墓所)がある久能山は、久能寺や久能城があった場所です。 日本平は久能寺への参詣のための参道の一部であったと言われています。 展示は「日本平夢テラス」のものです。 御前崎の方向 ランキン…
富士山と家康。清水港からの風景です。 山県昌景や穴山信君が城主をつとめた江尻城は、平城で、現在の江尻小学校の付近だったと言われています。海運にも関わっていたと言われますので、こんな風景だったのでしょうか。 ランキング参加中日本史 ランキング参…
「一富士 二鷹 三茄子」 家康が晩年、駿府を拠点にした理由に、富士山、鷹、折戸のナスの存在があったとも言われています。もちろん、戦略的、政治的な理由が大きかったとは思いますが、家康と富士山の話題もいくつか伝わっています。 清水区岡町の浜御殿 貝…
龍泉寺という名前のお寺はあちこちにあります。 浜松市にも有名なものは2つあって、そのうちの一つは、浜松医科大学の近くにある半田山龍泉寺で、三方原の合戦敗走した家康が、その阿弥陀堂に隠れたという話が伝わることで知られています。また、静岡市のJR…
浜松市の蒲神明宮(かばしんめいぐう)は、806年にできたと伝えられ浜松最古の神社と言われます。蒲神明宮は、今川氏、豊臣秀吉、徳川家康に社領を寄進され、信仰されてきました。地元では「ごしんさま」と呼ばれているようです。 源頼朝の異母弟として、平…
高天神城の周りの風景。 千人塚と大東北公民館。 千人塚 天正9(1581)年3月高天神落城時の戦死者多数を埋葬した場所 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康
高天神城(その8)。山城から降りていきます。 そして、南口から北口に歩いてみました。 姫路城などと違う戦国の要塞であった高天神城を現在でも感じることができました。 山の上は、広葉樹林ですが、下に降りていくと、杉の植林になります。 こんな季節で…
高天神城(その7)は、元天神社と三の丸跡。 元天神社は、ここに天神宮ので「高天神城」と呼ばれるようになったようです。その後、西の丸にある高天神社の位置に移ったということです。 ja.wikipedia.org ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴…
高天神城(その6)は、珪化木と高天神城の砦。 珪化木(けいかぼく) 松幹化石(樹幹化石)と書かれていますが、柵の後ろにある右側の切株のように見えるのが、珪化木です。詳しくは、wikipediaなどで。 高天神六砦 ランキング参加中日本史 ランキング参加…
高天神城。大河内政局幽閉の石窟まで。 大河内源三郎政局は徳川家康の祖母である華陽院の甥です。駿河での徳川家康の竹千代時代、華陽院とともに大河内政局は付き添っていたとされます。1574年の第一次高天神城の戦いでは、軍目付(いくさめつけ)でした。こ…
高天神城、まだ続きます。 この山の中の空堀、切割(堀切)、曲輪が、戦国の要塞という感じです。この辺は、写真ではわかりにくいです。夏場は、暑く、草に覆われ、虫や蛇などもいて山城の見学には適さないので、冬の風景です。 ランキング参加中徳川家康 ラ…
高天神城(その3)、馬場平の続きです。 横田甚五郎尹松(ただまつ)という武将。後に、関ヶ原の戦いや大坂夏の陣にも参陣することになります。 甚五郎抜け道。「天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報…
高天神城(その2)は、高天神社(西の丸跡)から馬場平。 当時はすぐ下まで海だったということです。 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加OK! ランキング参加中日本史 ランキング参加…
高天神城については、既に何回か取り上げましたが、もっと見せます。 高天神城(その1)は、搦手門(からめてもん)から登り切るまでです。 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加OK! …
家康の後半の人生で対峙する豊臣秀吉(日吉丸、木下藤吉郎)。若いころに、3年間ほど、浜松に滞在していたとされます。浜松城の前身となった引間城跡(曳馬城跡)にある元城東照宮には、猿真似をして栗を食べたということで、日吉丸・藤吉郎の像が家康像とと…
今回は、信康の終焉の地、二俣城付近の写真紀行です。 浜松市天竜区 二俣城 清龍寺付近 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中【公式】2023年開設ブログ
築山殿の終焉の地の写真紀行です。 佐鳴湖 佐鳴湖の北側の風景。以前は水質汚染の激しい湖とされていましたが、最近は改善されているようです。この湖は浜名湖ともつながっていて、ボラ、スズキ、クロダイといった海の魚も見られます。 現在、工事中の太刀洗…
今回は、築山殿と松平信康が関係する場所をまとめてみました。 (その2)(その3)は、終焉の地の写真紀行です。 築山殿の供養塔 築山殿と家康が結婚したのは、駿府の今川氏のもとでした。 そして、今川家の中で政治や外交にも手腕を発揮していた女性、寿…
家康の前半の人生で対峙する相手として最も大きな存在だったのが武田信玄と武田氏。1582年の天目山の戦いで、事実上、断絶しました。 一方、後半の人生で対峙する相手として大きな存在となるのが豊臣秀吉と豊臣氏であることは間違いないでしょう。1615年の大…