徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

家康と岩水寺の御神木@浜松

岩水寺は、浜松市浜北区にある高野山真言宗別格本山の寺院です。 こちらにも徳川家康が、三方原合戦のおり、逃げ込んだという大木が伝わっています。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康

日本庭園@三方原

三方原の戦いの三方原。 磐田市出身の世界的造園家である中根金作の庭園として、磐田市の瑞龍山宝珠寺とともに、遠州地方で見ることができる庭園のひとつが三方原にある浜松工業高校の庭園です。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキ…

富士山と家康(その2)

富士山と家康。清水港からの風景です。 山県昌景や穴山信君が城主をつとめた江尻城は、平城で、現在の江尻小学校の付近だったと言われています。海運にも関わっていたと言われますので、こんな風景だったのでしょうか。 ランキング参加中日本史 ランキング参…

浜松の蒲神明宮

浜松市の蒲神明宮(かばしんめいぐう)は、806年にできたと伝えられ浜松最古の神社と言われます。蒲神明宮は、今川氏、豊臣秀吉、徳川家康に社領を寄進され、信仰されてきました。地元では「ごしんさま」と呼ばれているようです。 源頼朝の異母弟として、平…

高天神城(その9)

高天神城の周りの風景。 千人塚と大東北公民館。 千人塚 天正9(1581)年3月高天神落城時の戦死者多数を埋葬した場所 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康

高天神城(その8)

高天神城(その8)。山城から降りていきます。 そして、南口から北口に歩いてみました。 姫路城などと違う戦国の要塞であった高天神城を現在でも感じることができました。 山の上は、広葉樹林ですが、下に降りていくと、杉の植林になります。 こんな季節で…

高天神城(その7)

高天神城(その7)は、元天神社と三の丸跡。 元天神社は、ここに天神宮ので「高天神城」と呼ばれるようになったようです。その後、西の丸にある高天神社の位置に移ったということです。 ja.wikipedia.org ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴…

高天神城(その6)

高天神城(その6)は、珪化木と高天神城の砦。 珪化木(けいかぼく) 松幹化石(樹幹化石)と書かれていますが、柵の後ろにある右側の切株のように見えるのが、珪化木です。詳しくは、wikipediaなどで。 高天神六砦 ランキング参加中日本史 ランキング参加…

高天神城(その5)

高天神城。大河内政局幽閉の石窟まで。 大河内源三郎政局は徳川家康の祖母である華陽院の甥です。駿河での徳川家康の竹千代時代、華陽院とともに大河内政局は付き添っていたとされます。1574年の第一次高天神城の戦いでは、軍目付(いくさめつけ)でした。こ…

高天神城(その4)

高天神城、まだ続きます。 この山の中の空堀、切割(堀切)、曲輪が、戦国の要塞という感じです。この辺は、写真ではわかりにくいです。夏場は、暑く、草に覆われ、虫や蛇などもいて山城の見学には適さないので、冬の風景です。 ランキング参加中徳川家康 ラ…

高天神城(その3)

高天神城(その3)、馬場平の続きです。 横田甚五郎尹松(ただまつ)という武将。後に、関ヶ原の戦いや大坂夏の陣にも参陣することになります。 甚五郎抜け道。「天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報…

高天神城(その2)

高天神城(その2)は、高天神社(西の丸跡)から馬場平。 当時はすぐ下まで海だったということです。 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加OK! ランキング参加中日本史 ランキング参加…

高天神城(その1)

高天神城については、既に何回か取り上げましたが、もっと見せます。 高天神城(その1)は、搦手門(からめてもん)から登り切るまでです。 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加OK! …

小牧山

小牧山の風景です。

設楽原まとめ

設楽原の風景をたくさん。 ieyasu.hatenablog.jp ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中【公式】2023年開設ブログ ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加O…

長篠城まとめ(その2)

長篠城まとめ(その2)です。まとめ(その1)はこちら。 ↑上の写真の拡大 ↑上の写真の拡大 鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の墓 JR飯田線の「鳥居」駅 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中【…

中泉歴史公園と秋鹿氏@磐田

戦国時代の終わりから、江戸時代の始めにかけて、関ヶ原の戦い、大坂の陣、朝廷との関係など、日本史上の重要な出来事が起こります。こういうことについての相談(政治)というのは、江戸城や京の伏見城、二条城あたりでなされていたというイメージがありま…

家康の孫・東福門院と磐田

徳川家康には、11男5女がいたと一般には言われています。 そのうち、西郷局との子である秀忠は将軍家、そして3人の男子が御三家となり重要な存在になります。御三家の子どもたちは、家康晩年の子供ですので、その子供(家康の孫)と接することもなかったも…

木原大念仏と長命寺@袋井

許禰神社は、1572年、家康が武田信玄に惨敗した三方原の戦いの前哨戦となった木原綴の古戦場でした。しかし、1575年の長篠設楽原の戦いの後になると、遠江でも武田方が劣勢になりました。 許禰神社のすぐ近くにある長命寺には、武田家家臣の笹田源吾の供養塔…

許禰神社の家康腰掛石@袋井

袋井市にある許禰神社(こねじんじゃ)は、袋井市と磐田市の境界近くの旧東海道沿い、太田川の東側にある神社です。かつては、木原権現、熊野権現とも称していたようです。 もともと木原畷と呼ばれる古戦場で、徳川方の久野氏と武田方が三方原の戦いの前哨戦…

戦国時代の「姫街道」

現在、岡崎から浜松、見付(磐田)に行く場合は、東海道が基本になっていますので、吉田(豊橋)から新居、弁天島、舞阪を通って、浜名湖を渡る経路を思い浮かべると思います。JRの東海道本線、東海道新幹線、バイパスでわかりにくくなりましたが国道1号線…

冷酒清兵衛と家康@磐田

上村清兵衛という人が見付(磐田)に住んでいて、酒を作っていました。徳川家康が見付を訪れた時、冷酒を出したところ、家康は気に入って、冷酒清兵衛と呼ぶようになったといいます。 その後、家康が武田方に追われて見付に逃れてきました。見付宿に火を放ち…

三河一向一揆和議の地:浄珠院

浄珠院には、1563年から64年の三河一向一揆の時、家康の本陣が置かれ、制圧のため、自ら指揮をとりました。激しい戦の後、一揆方から提案された和議の案がここで成立しました。 JR岡崎駅近くにあるイチョウの木が印象的な寺院です。 ランキング参加中日本史 …

三方ヶ原の戦いアップデート

三方ヶ原の戦いまとめです。 JR浜松駅前のアクトタワー展望回廊 三方原の戦いの様子を実感するには、JR浜松駅前のアクトタワーの展望回廊に行くのがよいと思います。展望回廊は、オークラアクトシティホテル浜松のロビーのエレベーターを利用することで行く…

長篠城まとめ

長篠城まとめです。

設楽原の風景(その3)家康本陣

長篠・設楽原の戦い、特に設楽原の戦いがどんなものであったのかは、このあたりを訪れてみることで、よく理解できます。 長篠の戦いと言われることも多いですが、長篠と設楽原の間は5キロメートルくらいあります。異なる場所といってもよいくらいです。また…

設楽原の風景(その2)武田勝頼観戦地

設楽原の戦いの際の武田勝頼の観戦地とされる場所です。 山の中を歩いていきます。 上から下を見下ろす ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康

設楽原の風景(その1)塚

武田四天王は、馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信の4人です。 長篠・設楽原の戦いでは、武田四天王のうち、3名が命を落としています。それぞれの塚を訪ねてみました。 設楽原歴史資料館での展示より 新城市設楽原歴史資料館:新城…

長篠の風景(その4)鳥居強右衛門

今回は、鳥居強右衛門(とりい すねえもん)関係の場所です。 長篠城址の本丸・野牛曲輪跡 長篠城址は、寒狭川(現在は豊川とよかわ、左)と大野川(現在は宇連川うれがわ、右)が合流する場所にあります。鳥居強右衛門磔の地は左側の豊川側にあります。 鳥…

長篠の風景(その3)馬場信房墓と中央構造線露頭

武田四天王は、馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信の4人です。 長篠城址の西側少しのところに、馬場信房の墓碑と中央構造線の露頭があります。 左側に見える木のかたまりが馬場信房の墓碑です。 中央構造線露頭 林の中を歩いていく…