徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

戦国時代の「姫街道」

現在、岡崎から浜松、見付(磐田)に行く場合は、東海道が基本になっていますので、吉田(豊橋)から新居、弁天島、舞阪を通って、浜名湖を渡る経路を思い浮かべると思います。JRの東海道本線、東海道新幹線、バイパスでわかりにくくなりましたが国道1号線(旧)なども基本的にこの経路を利用しています(豊橋より西は名鉄本線)。

 

しかし、徳川家康や武田信玄が活動した戦国時代には、この経路というのは使われていなかったものと思います。そのころは、1498年の南海トラフ大地震である明応地震と津波で、浜名湖と遠州灘の間の陸が決壊し、浜名湖が塩水湖となる今切ができたばかりで、浜名湖を渡るのは船のみでした。したがって、陸路で行くには、浜名湖の北の経路のみが利用されていたわけです。本坂通、二見の道(後の「姫街道」)は、浜名湖の北側を経由して磐田市見付と豊川市御油町を結ぶ街道として利用されていました。その経路は、現在の東海道本線とは大きく異なっています。

 

徳川家康の遠江侵攻時の堀川城攻めなどの経路や、武田信玄の軍勢の動き、三方ヶ原の戦いなども、この経路を中心にして理解する必要があります。

西郷局(お愛の方)を出した三河西郷氏が拠点にしたこともある月ヶ谷城は、この経路を押さえるために作られた城であり、豊橋市の北部にあります。また、井伊家の本拠である井伊谷の重要性もこの経路を中心に理解する必要があるでしょう。


愛知県豊川市御油の姫街道の始まりの地点(東側をみる)

御油の東海道松並木

 

静岡県磐田市見付の姫街道の始まりの地点(西側をみる)

見付宿の中川

気賀の関所