清見寺(せいけんじ)は、静岡市清水区興津の臨済宗妙心寺派の寺院。
足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。徳川家康は駿府の人質であったが、臨済寺に加え清見寺の住職でもあった太原雪斎に師事し、勉強していたといい、手習いの間やお手植えの梅(臥龍梅)とされるものがあります。武田氏と今川氏の攻防の拠点ともされました。
江戸時代になると、東海道にある風光明媚な名刹として、朝鮮通信使や琉球使の接待が行われたことからその関連の記録がたくさん残っています。庭園も国の名勝。幕府軍と新政府軍の争いの時の幕府軍の戦没者のために清水の次郎長、榎本武揚が作ったという咸臨丸碑 があります。
境内にJR東海道線が通っています。
血天井
1200年、梶原景時は、源頼朝の死後、御家人66人に弾劾され、鎌倉を追放され、その途中、この寺で交戦しました。その際の床板を天井板にしたという血天井。逃げ延びた景時でしたが、静岡市内の山中で自刃したとされます。
徳川家康と側室・下山殿(穴山信君の養女)との間にできた振姫・正清院(蒲生秀行、浅野長晟の室)が、1616年、戦乱がなくなることを願って清見寺に玄関を寄進し、その時、血が付いた床板を天井に用いたといいます。振姫は、亀姫(築山殿との娘)、督姫(西郡の局との娘)に続く家康三女です。
臥龍梅 - 竹千代のお手植えの梅
庭園
昔はここからの風景が絶景だったといいます。
五百羅漢