徳川家康には、11男5女がいたと一般には言われています。
そのうち、西郷局との子である秀忠は将軍家、そして3人の男子が御三家となり重要な存在になります。御三家の子どもたちは、家康晩年の子供ですので、その子供(家康の孫)と接することもなかったものと思われます。有名な水戸光圀も家康の孫になります。
一方、秀忠とお江との子供では、家光、千姫、忠長、さらに庶子である保科正之など、歴史の舞台に登場する人物も多いです。家光、千姫、忠長は家康が存命であった時に成長していた家康の孫になります。豊臣家との関係で翻弄された千姫は、1597年に生まれています。
その10年後、徳川秀忠とお江の五女として、1607年に生まれた和姫(東福門院、徳川和子、源和子、まさこ)も、1616年に家康が没する前に生まれた孫になります。後水尾天皇の中宮、明正天皇の生母です。もともとは和姫(かずひめ)と呼ばれていましたが、皇室に嫁ぐ際、濁点のある読み方は駄目だということで、「まさこ」という名前になったのは有名な話です。また、当時のファッションリーダーのような役割を果たしたともされています。
徳川和子・東福門院は磐田とゆかりのある人物です。関ヶ原や大坂の陣の相談がなされたとされる磐田の中泉御殿の存在、和姫と千姫の姉妹の人生を思うと、実はこの場所が日本史に大きく関わっていたのではないか、と考えてしまいます。
府八幡宮の桜門(ろうもん)
府八幡宮の再建には、徳川秀忠が関わったとされています。1617年と言いますから、豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣の後、家康が亡くなった直後のことです。桜門は、1635年に再建されました。再建をした願主は、東福門院だとされています。静岡県指定文化財。
東福山西光寺@見付
大坂の陣、1616年の家康の逝去、後陽成院の崩御、更には、1618年のおよつ御寮人事件(万里小路事件)などもあり、東福門院・徳川和子(1607年生まれ)の入内は遅れていましたが、1620年、後水尾天皇の皇后となりました。江戸から京へ行く途中、見付の西光寺に、伽藍の建立と、守り本尊だった阿弥陀三尊仏と地蔵尊を残したということです。皇室に嫁ぐのに、仏像は1621年に西光寺が全焼するということがあったようですが、阿弥陀三尊仏と地蔵尊は無事で、1623年に再建されると、本堂に安置されたということです。
地蔵尊
阿弥陀三尊仏