徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

知立神社と側室お万の方

家康の側室で「お万の方」と呼ばれる側室は2名います。

一人は、家康が年老いてからの側室で、駿府で育った紀州徳川家の徳川頼宣、水戸徳川家の徳川頼房の生母であり、日蓮宗に帰依した養珠院と呼ばれる人物です。

もうひとりの「お万の方」は、長勝院(ちょうしょういん)、於古茶(おこちゃ)、小督局(おごうのつぼね)、あるいは於故満(おこま)、池鯉鮒之御方(ちりゅうのおかた)と呼ばれる女性です。家康の次男である結城秀康(於義丸、松平秀康)の生母として、1619年に北の庄で没しました。

お万の方は、三河国知鯉鮒明神の社人である永見貞英の娘と言われています。母は刈谷城主水野忠政の娘という説があります(つまり於大の方のめい)。三河国知鯉鮒明神というのは、現在は「知立神社(ちりゅうじんじゃ)」として知られている愛知県知立市(ちりゅうし)にある神社です。お万の方の誕生地として、知立市の総持寺に石碑があるようです。築山殿の女中であったとも言われています。

お万の方を生母とする結城秀康は双子として生まれ、一人が結城秀康に、もう一人は知立神社の神主・永見貞愛となったとされる説があります。

 

名古屋市の熱田神宮の規模が大きく、三種の神器のうちの一つがあったり、源頼朝が熱田神宮大宮司の娘であったりしますが、知立神社は小さくまとまった趣きのある場所となっています。尾張徳川家の徳川義直の生母であるお亀の方が京都の石清水八幡宮の祀官家の分家の娘ということで、その身分の低さに悩んだということがあるようですが、小さな神社の関係者の娘という立場を理解してみる必要がありそうです。

知立神社

知立神社は、愛知県知立市にある三河の二の宮である神社です。

その多宝塔は、1509年に建てられたものとされています。

片目の鯉の話が有名です。

知立というと、在原業平の伊勢物語にでてくる八橋の「かきつばた」が有名な折句の短歌「唐衣 きつつなれにし つましあらば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」とともに知られていますが、知立神社の横には、花しょうぶ園があります。

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中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見)

お万の方については、築山殿にせっかんされたというようなエピソードも伝わっていますが、正室である築山殿の認める側室でなかったとされています。そのため、浜松近くの城外で出産したといいます。

ここで、徳川家康の次男である結城秀康(1574年2月8日生)が生まれたとされます。浜名湖周辺の奉行を務める源範頼の系譜である領主であった中村正吉の屋敷です。その胞衣を納めた塚があります。塚上の梅は徳川家康の手植えと伝えられています。

伝承では、秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなった、あるいは知立神社の神主になったという説があります。家康が、秀康を疎んじた理由としては、双子であったとの説や、生母の身分が低かったためという説もあると思います。

知立神社神主となった永見貞愛

永見貞愛(ながみ さだちか)は、結城秀康の双子の兄弟とされ、お万の兄である永見貞親に育てられ、知立神社の神主になったという説があります。

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三河一向一揆(その4)吉良氏の里

1560年、桶狭間の戦い後、松平元康は今川氏から独立。吉良義昭は家康と対立しましたが、藤波畷の戦いで一旦降伏しました。しかし、1563年になると、西三河で三河一向一揆が勃発し、吉良義昭は家康に再び対抗しました。一揆は解体され、吉良義昭も東条城(愛知県西尾市)に籠城して抵抗しましたが、三河から撤退し、吉良氏は没落しました。

なお、義昭の兄である義安が三河吉良氏の家督を継いで、やがて江戸時代の高家となり、吉良義央(吉良上野介)につながっていきます。

「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われた足利氏、吉良氏、今川氏、そして一色氏。吉良や今川は、江戸時代でいえば徳川御三家みたいなものといえると思います。鎌倉時代の初期に起きた承久の変の後、足利義氏(北条時政の孫でもある)が三河国守護に任じられたのが、三河での足利氏の躍進、そして吉良、今川の始まりとされています。

足利義氏が庶子の足利長氏(おさうじ、吉良長氏)を派遣して築城したのが、西尾市にある西条城(西尾城)です。西条城は西に、東条城は東にあります。吉良という荘園名は雲母が採れたことに由来するそうでう。 雲母は「きらら」といい、これが「きら」になったということです。

 

西尾市資料館

家康や信長は西尾に鷹狩りのために訪れたらしい

吉良長氏の子である国氏が、今川義元や氏真につながる今川氏の始まり。

西尾城の本丸丑寅櫓

後に駿府を拠点に支配する今川氏の発祥の地は、名鉄西尾駅の東側にあります。また、現在でも「今川」という地名が残っています。

西尾城の本丸丑寅櫓から望む東側(今川氏発祥の地や東条城がある)

 金蓮寺(こんれんじ)

西尾市の南部にある金蓮寺。もともと真言宗寺院であったものを、1340年、足利尊氏が現在の場所に移したといいます。江戸時代になると、吉良氏の帰依を得て、曹洞宗になったそうです。

愛知県には、建造物では3件の「国宝」指定があります。金蓮寺の「弥陀堂」はそのうちの1件で、愛知県内最古の木造建造物です。愛知県内の国宝建造物には、犬山城、犬山の如庵がありますが、犬山城クラスの貴重な建物ということになります。1186年に源頼朝が三河国守護の安達盛長に命じて建立した三河七御堂(みかわしちみどう)の一つとも言われています。

 

国宝なのでじっくりと拝見します。

普段はよいですが、台風とかきたら大変だろうと感じました。

吉良町饗庭(あいば)

饗庭の竹やぶに入り込む

金蓮寺のある山

吉良吉田の海岸

吉良饗庭塩の里

吉良吉田の海岸、渥美半島と知多半島に囲まれた三河湾を望む。






三河一向一揆(その3)JR岡崎駅かいわい

岡崎の玄関というと、どうしても岡崎城に近く、活気のある名鉄「東岡崎」駅になってしまいますが、JR東海道線の「岡崎」駅にも「松平元康像」があります。そして、JR岡崎駅の界隈は、三河一向一揆の拠点となった地域でした。名鉄「東岡崎」からJR岡崎駅というのは、距離にして3〜4kmでしょうか。歩くには躊躇する距離です。

JR岡崎駅の「松平元康」

勝鬘寺(しょうまんじ)

勝鬘寺は、本證寺、上宮寺とともに真宗三河三か寺の一つです。勝鬘寺の三河一向一揆では、徳川十六神将でもある蜂屋貞次、渡辺守綱らが立てこもりました。しかし、数ヶ月にして土呂の本宗寺などとともに家康方の兵火にかかり、大規模な伽藍も消失したといいます。住職は国外追放となり信濃国に逃れましたが、1585年に戻りました。

 

土呂八幡宮

奈良時代末期に創建されたといいます。一揆の拠点として近隣にできた本宗寺とともに、1564年、三河一向一揆により焼失しましたが、徳川家康の命を受け石川数正によって再建されました。

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上地八幡宮

源頼朝の弟の源範頼が、平家討伐後に三河国の守護に命じられ、1190年に社殿を造営したのが、上地八幡宮の起源とされます。

JR東海道線が通っています。

 

三河一向一揆(その2)JR西岡崎駅かいわい

三河には、親鸞がひらいた浄土真宗(一向宗)の門徒が多いとされています。そのきっかけとなったのが、親鸞が東国布教からの帰京の途中、この地に立ち寄り、妙源寺で説法を行ったことだと言われています。妙源寺は、JR西岡崎駅のすぐ北にあります。

また、JR西岡崎駅の南には、三河三ヶ寺の一つであり、三河一向一揆の発端となったとされる上宮寺があります。

JR西岡崎駅

日本の動脈であるJR東海道線の駅にしては、活気がない駅です。

妙源寺(みょうげんじ)

1235年、親鸞が関東での布教の帰郷の際、三河に立ち寄ったとされています。領主・安藤信平が親鸞を柳堂(国指定重要文化財)に招いて説法を聞いたといいます。そして、安藤信平が親鸞の教えに感化され、1258年に寺を建て、これを明眼寺(みょうげんじ)としました。三河一向一揆(1563年-1564年)の時、徳川家康が身を寄せたことから、家康から「源」の字を与えられ、妙源寺となったといいます。三河の浄土真宗の最も古い道場だそうです。

 

柳堂

上宮寺(じょうぐうじ)

上宮寺は、本證寺、勝鬘寺とともに「三河三ヶ寺」のひとつで、三河一向一揆の発端とされています。

 

本堂は昔のものがなくなって、現代的なものになっています。

「太田」という姓の発祥の地?

妙春尼は、家康の生母である於大の方の姉、石川家成の母です。

妙春尼は、浄土真宗の門徒でした。三河一向一揆後、20年間にわたり、この地方では浄土真宗の活動が禁じられていました。その赦免に尽力したのが妙春尼だと言われています。

石工団地神社

上宮寺とJR西岡崎駅の間には、多くの石材店が見られます。そして、石工の神社もあり、すべてが石で作られた神社だそうです。