高天神城。大河内政局幽閉の石窟まで。
大河内源三郎政局は徳川家康の祖母である華陽院の甥です。
駿河での徳川家康の竹千代時代、華陽院とともに大河内政局は付き添っていたとされます。1574年の第一次高天神城の戦いでは、軍目付(いくさめつけ)でした。この1574年の戦いでは、武田勝頼方が勝利し高天神城を降伏させることになります。武田方は、徳川方の兵すべての命を助け、今後の身の振り方を自由に選択させます。ほぼすべてが武田方を選びました。
ところが、大河内政局だけは従わず、石窟に閉じ込められます。1581年に徳川方が高天神城を奪還するまで7年近くを牢内で過ごしたとされます。救出時、大河内政局は目が見えず、歩くこともできなったとされます。
石窟のこのような大河内政局を支えたのが横田尹松(「甚五郎抜け道」の横田尹松)です。なお、大河内政局は、1584年の小牧・長久手の戦いで討死しました。
大河内政局幽閉の石窟
1574年の武田勝頼による高天神城落城の際、勝頼の命に服さなかった大河内政局が幽閉された石窟。1581年に徳川方が高天神城を奪還するまで7年近くを牢内で過ごしたとされる。