徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

遠州

家康と岩水寺の御神木@浜松

岩水寺は、浜松市浜北区にある高野山真言宗別格本山の寺院です。 こちらにも徳川家康が、三方原合戦のおり、逃げ込んだという大木が伝わっています。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康

日本庭園@三方原

三方原の戦いの三方原。 磐田市出身の世界的造園家である中根金作の庭園として、磐田市の瑞龍山宝珠寺とともに、遠州地方で見ることができる庭園のひとつが三方原にある浜松工業高校の庭園です。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキ…

宝珠寺と秀吉@磐田

磐田市豊島(JR磐田駅の南)の瑞龍山宝珠寺は、創建1350年とされる名刹です。 日吉丸(後の豊臣秀吉)が浜松の松下屋敷にいたころ、 松下長則が宝珠寺に囲碁に訪れたとされます。日吉丸が供として、対局を待つ間、この宝珠寺本堂の廊下で寝ていたという言い…

積志の龍秀院@浜松

龍秀院は、開創以来、一度も火災にあっていないという寺院で、多数の古文書が伝わっているということです。 「家康公ゆかりの里」徳川家菩提所とされています。龍秀院と徳川家康の関係については、龍秀院の中の立て看板のみが伝えています。 ランキング参加…

半田山龍泉寺@浜松

半田山龍泉寺。浜松市の浜松医科大学の北側にあります。 三方ヶ原合戦に敗れた家康が龍泉寺阿弥陀堂に隠れ、阿弥陀如来から「普済寺に火を放ち浜松城が焼け落ちてた様に見せかけ、犀ヶ崖に布の橋をかけ武田軍を欺く」軍略を授かったとされます。 ランキング…

浜松の龍泉寺

龍泉寺という名前のお寺はあちこちにあります。 浜松市にも有名なものは2つあって、そのうちの一つは、浜松医科大学の近くにある半田山龍泉寺で、三方原の合戦敗走した家康が、その阿弥陀堂に隠れたという話が伝わることで知られています。また、静岡市のJR…

浜松の蒲神明宮

浜松市の蒲神明宮(かばしんめいぐう)は、806年にできたと伝えられ浜松最古の神社と言われます。蒲神明宮は、今川氏、豊臣秀吉、徳川家康に社領を寄進され、信仰されてきました。地元では「ごしんさま」と呼ばれているようです。 源頼朝の異母弟として、平…

高天神城(その9)

高天神城の周りの風景。 千人塚と大東北公民館。 千人塚 天正9(1581)年3月高天神落城時の戦死者多数を埋葬した場所 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康

高天神城(その8)

高天神城(その8)。山城から降りていきます。 そして、南口から北口に歩いてみました。 姫路城などと違う戦国の要塞であった高天神城を現在でも感じることができました。 山の上は、広葉樹林ですが、下に降りていくと、杉の植林になります。 こんな季節で…

高天神城(その7)

高天神城(その7)は、元天神社と三の丸跡。 元天神社は、ここに天神宮ので「高天神城」と呼ばれるようになったようです。その後、西の丸にある高天神社の位置に移ったということです。 ja.wikipedia.org ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴…

高天神城(その6)

高天神城(その6)は、珪化木と高天神城の砦。 珪化木(けいかぼく) 松幹化石(樹幹化石)と書かれていますが、柵の後ろにある右側の切株のように見えるのが、珪化木です。詳しくは、wikipediaなどで。 高天神六砦 ランキング参加中日本史 ランキング参加…

高天神城(その5)

高天神城。大河内政局幽閉の石窟まで。 大河内源三郎政局は徳川家康の祖母である華陽院の甥です。駿河での徳川家康の竹千代時代、華陽院とともに大河内政局は付き添っていたとされます。1574年の第一次高天神城の戦いでは、軍目付(いくさめつけ)でした。こ…

高天神城(その4)

高天神城、まだ続きます。 この山の中の空堀、切割(堀切)、曲輪が、戦国の要塞という感じです。この辺は、写真ではわかりにくいです。夏場は、暑く、草に覆われ、虫や蛇などもいて山城の見学には適さないので、冬の風景です。 ランキング参加中徳川家康 ラ…

高天神城(その3)

高天神城(その3)、馬場平の続きです。 横田甚五郎尹松(ただまつ)という武将。後に、関ヶ原の戦いや大坂夏の陣にも参陣することになります。 甚五郎抜け道。「天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報…

高天神城(その2)

高天神城(その2)は、高天神社(西の丸跡)から馬場平。 当時はすぐ下まで海だったということです。 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加OK! ランキング参加中日本史 ランキング参加…

高天神城(その1)

高天神城については、既に何回か取り上げましたが、もっと見せます。 高天神城(その1)は、搦手門(からめてもん)から登り切るまでです。 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加OK! …

秀吉の浜松での足跡

家康の後半の人生で対峙する豊臣秀吉(日吉丸、木下藤吉郎)。若いころに、3年間ほど、浜松に滞在していたとされます。浜松城の前身となった引間城跡(曳馬城跡)にある元城東照宮には、猿真似をして栗を食べたということで、日吉丸・藤吉郎の像が家康像とと…

築山殿と信康まとめ(その3)

今回は、信康の終焉の地、二俣城付近の写真紀行です。 浜松市天竜区 二俣城 清龍寺付近 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中【公式】2023年開設ブログ

築山殿と信康まとめ(その2)

築山殿の終焉の地の写真紀行です。 佐鳴湖 佐鳴湖の北側の風景。以前は水質汚染の激しい湖とされていましたが、最近は改善されているようです。この湖は浜名湖ともつながっていて、ボラ、スズキ、クロダイといった海の魚も見られます。 現在、工事中の太刀洗…

築山殿と信康まとめ(その1)

今回は、築山殿と松平信康が関係する場所をまとめてみました。 (その2)(その3)は、終焉の地の写真紀行です。 築山殿の供養塔 築山殿と家康が結婚したのは、駿府の今川氏のもとでした。 そして、今川家の中で政治や外交にも手腕を発揮していた女性、寿…

池田輝政ゆかりの国清寺@掛塚@磐田

磐田市掛塚の国清寺は、浄土宗の寺院。開山の源誉大僧正は家康と親交があったとされています。国清寺の創建は1615年と伝わりますが、それ以前には存在していたということです。 開基の松山家が池田輝政と姻戚関係があったことから、池田輝政の法名(国清院)…

西郷局(お愛の方)まとめ

西郷局(お愛の方)まとめです。 美人で温和誠実な人柄であり、旦那が戦死した苦労人。家康の信頼が厚く、家臣や侍女達にも好かれていたといいます。二代将軍秀忠の生母であり、後に御三家筆頭となる尾張国を最初にまかされた松平忠吉の生母です。 掛川城天…

貴船神社の東照宮@掛塚@磐田

貴船神社(きぶねじんじゃ)は、磐田市掛塚にある神社。天竜川流域には貴船神社が多いため、掛塚貴船神社と呼ばれます。天竜川河口の掛塚湊の鎮守とされていました。ここには、東照宮があります。 東照宮 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史…

時宗の3寺院@磐田

1283年ころに成立したという阿仏尼の紀行文 「十六夜日記」には、見付(磐田)の国府に泊まった時の印象として、このようなことが書かれています。 荒れていて、怖いところであったと。。 こよひはとほつあふみみつけのこふといふ所にとゞまる。里あれて物お…

見性寺と家康@磐田

磐田市見付の見性寺は、臨済宗の寺院。如意輪観世音菩薩、釈迦如来坐像、不動三尊立像、十六羅漢図、五鈷鈴などの寺宝、境内には縄文時代の貝塚や盗賊日本左衛門の供養塔、松尾芭蕉の句碑「梅が香にのつと日の出る山路かな」などもあります。 創建年代は不明…

築山御前の腹篭地蔵尊@高塚

JR高塚駅近くの地蔵院(臨済宗)の位牌堂には、築山御前の腹篭地蔵尊があるそうです。 地蔵院は、後醍醐天皇の子、宗良親王ゆかりの元通円密が庵を結んだとされています。 説明が可美村の時代の教育委員会のものになっています。 六地蔵 ランキング参加中日…

安寧寺@雄踏町山崎

護国山安寧寺(あんねいじ)は、浜松市西区雄踏町山崎にある臨済宗妙心寺派の寺院。室町時代に創建されたといいます。 徳川家康が、この寺の清庵宗徹和尚から禅や兵学易学を学んだとも言われています。三方原の戦いの時の活動などの言い伝えがありますが、真…

西郷局が開いた心造寺

1579年に長丸(秀忠)が生まれると、1580年に秀忠の産土神(うぶすながみ)として浜松城内にあった五社神社が、現在、五社・諏訪神社のある場所に移されました。そのすぐ北側に西郷局が開いたのが先照山心造寺(しんぞうじ)です。 西郷局が奉納した鉄灯篭が…

中泉歴史公園と秋鹿氏@磐田

戦国時代の終わりから、江戸時代の始めにかけて、関ヶ原の戦い、大坂の陣、朝廷との関係など、日本史上の重要な出来事が起こります。こういうことについての相談(政治)というのは、江戸城や京の伏見城、二条城あたりでなされていたというイメージがありま…

家康の孫・東福門院と磐田

徳川家康には、11男5女がいたと一般には言われています。 そのうち、西郷局との子である秀忠は将軍家、そして3人の男子が御三家となり重要な存在になります。御三家の子どもたちは、家康晩年の子供ですので、その子供(家康の孫)と接することもなかったも…