戦国時代の終わりから、江戸時代の始めにかけて、関ヶ原の戦い、大坂の陣、朝廷との関係など、日本史上の重要な出来事が起こります。こういうことについての相談(政治)というのは、江戸城や京の伏見城、二条城あたりでなされていたというイメージがあります。ところが、ここでそれなりの役割をしていたのが、現在は磐田市の中泉御殿であったというのはあまり知られていません。
(磐田市香りの博物館で開催されている「家康の遺香展」のパネルから)
1575年の長篠合戦の後の1578年、家康は、府八幡宮の神主だった秋鹿(あいか)氏の屋敷跡に砦を作りました。そして、後に江戸などの関東の発展に大きな役割をすることになる伊奈忠次に中泉御殿の建設をまかせました(JR磐田駅の南)。秋鹿氏は、この時、現在「中泉歴史公園」として知られている場所(JR磐田駅の北西)に屋敷を移したとされます。家康が関東に移封となった後、豊臣側の家臣が三河や遠江を支配するようになった後も、中泉御殿だけは家康の直轄地のような場所になっていて、上洛などの途中に利用していたとされます。浜松城が豊臣側の他人のものになってしまい使えない、天竜川の西からの攻撃を意識、天竜川増水時の待機、湊であった掛塚にも近い、そして大池周辺での鷹狩りなどにも使えたということがあったものと思います。
JR磐田駅の南にある中泉御殿とJR磐田駅の北西にある「中泉歴史公園」の距離は近いですが、どちらの施設でどんな会談が行われたのか、どちらに宿泊したのかは混乱しています。本能寺の変では織田信長とその後継者の信忠が同じ日に京都に滞在していたために両者が明智勢に討たれてしまい、その後、織田氏の力は急速に失われました。この事件を体験していた家康は、後継者である秀忠の旅程は慎重に把握していたものと考えられます。
中泉歴史公園