徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

お愛の方と家康の馴れ初めはどこ?

江戸幕府の二代将軍となった秀忠の生母として知られるお愛の方(西郷局)。

姉川(1570)、三方原(1572)、長篠(1575)、信康・築山殿処分、本能寺と伊賀越(1582)、天正壬午の乱、小牧長久手(1584)までの浜松時代(1570-1586)に家康を支えた、掛川生まれとされる側室です。浜松から駿府に移って、まもなく亡くなりました。菩提寺はJR静岡駅前の宝台院です。

File:Saigo-no-Tsubone2.JPG - Wikimedia Commons

 お愛の方の父は今川氏に仕えた戸塚忠春、母は西郷氏。西郷氏は、三河守護代の家系であり、三河の名門です。戸塚忠春は、現在の掛川市を居住地にしており、お愛の方も掛川で生まれたとされています。西郷義勝と結婚し1男1女をもうけました。1571年、武田氏との戦いの中で、夫の義勝が亡くなります。実父の戸塚忠春も戦いで死んでいます。

戸塚忠春 - Wikipedia

掛塚(磐田市)

その後、お愛は、服部正尚と再婚していた実母の元に身を寄せました。1578年、家康が武田方の田中城(藤枝市)攻めの帰りに、服部正尚の屋敷を訪れ、お愛を見初めたといいます。服部という名前が示す通り、服部正尚は忍びの関係者で、当時、掛塚(現在の磐田市南部)で鋸(のこぎり)の鍛冶屋として潜伏していたとされます。潜伏中の鍛冶屋に殿様がやってくるというのも考えにくいですが、近視になるほど勉強好きだったというお愛がおかれていた環境というのも興味深いです。西郡の局が仲介したという説もあります。服部正尚は、後に伊賀越えで活躍したという説も。

 天竜川の河口付近に位置する掛塚は、江戸時代になって特に栄えました。掛塚は、遠州北部の材木を天竜川に流し、それを加工して、各地に運ぶ拠点でした。この加工に、のこぎりが必要なので、鍛冶屋が必要だったものと考えられます。ちなみに、浜松のピアノ産業の原点はこの辺にあるとも言われています。

 この付近は、氾濫を繰り返す天竜川の河口で、当時は海岸線も現在より陸側にあり、現在とはずいぶん様子が違ったと想像されます。今川氏真が掛川城から小田原の北条氏のもとに移動する時、掛塚湊を利用したとも伝わっています。

掛塚と家康お気に入りの場所だったとされる中泉御殿(JR磐田駅のすぐ南)の間には、白拍子という地区があります。徳川家康の愛読書「吾妻鏡」にも書かれている女性、東海一の美女とも言われた千寿(千手)が住んだ場所だといわれています。千寿白拍子というお酒も遠州の地酒として有名です。近隣の豊田町からは熊野御前がでていますが、この付近は、源平の時代からロマンチックな話題の多い場所です。

千寿の廟

 

 龍華院にある「西郷の局」の石碑(掛川市)

 

徳川秀忠の産湯の井(浜松市)

 

西郷の局の菩提寺である宝台院(静岡市)