三河
家康の最大の危機とも言われる神君伊賀越え。 宇治田原(甲賀)あるいは大和路経由で伊賀を通過し、伊勢の白子から三河に戻ったと言われています。伊賀越えの部分がよく話題になる一方で、伊勢から三河に戻るところはあまり描かれることがないと思います。 …
岡崎の伊賀八幡宮については冬の様子を伝えています。 しかし、伊賀八幡宮の見どころは、夏のハスです。 泥の中から美しく咲く蓮の花は、「厭離穢土欣求浄土」「戦で穢れた乱世を平和な極楽浄土へ変えよう」という家康公が旗印に掲げた願いに重なります。 伊…
築山稲荷@岡崎です。 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康
以前、築山御前が暮らしていたとされる築山の位置について、このようなブログを出しました。 それに対して、築山御前が暮らしていた築山は、築山稲荷大明神がある場所ではないか、という問い合わせがありました。 その経緯について、以下のような解説を見つ…
築山殿の終焉の地の写真紀行です。 佐鳴湖 佐鳴湖の北側の風景。以前は水質汚染の激しい湖とされていましたが、最近は改善されているようです。この湖は浜名湖ともつながっていて、ボラ、スズキ、クロダイといった海の魚も見られます。 現在、工事中の太刀洗…
今回は、築山殿と松平信康が関係する場所をまとめてみました。 (その2)(その3)は、終焉の地の写真紀行です。 築山殿の供養塔 築山殿と家康が結婚したのは、駿府の今川氏のもとでした。 そして、今川家の中で政治や外交にも手腕を発揮していた女性、寿…
菅生神社(すごうじんじゃ)は、岡崎城のすぐ東にある神社です。日本武尊が東国平定のために菅生の地を通過した際、勧請したということで、岡崎市では最古の神社とも言われています。こちらでも新田白山神社とともに、家康25才厄年の祈祷を行ったようです。 …
新田白山神社は、岡崎城のすぐ西側にある小さな神社です。 たくさんの寺社を焼き討ちした織田信長の白山信仰というのは有名ですが、徳川家康と白山信仰の関係はあまり知られていないと思います。ところが、「家康は豊臣秀吉に臣従する天正14年(1586)までの…
楞厳寺(りょうごんじ)は、愛知県刈谷市にある曹洞宗の寺院。1413年、遠江国浜松の普済寺の利山義聡によって創建。刈谷城主である水野家の菩提寺で、境内には水野家廟所があります。 於大の方の兄であり、家康の叔父にあたる水野信元は、1576年1月、武田勝…
設楽原の風景をたくさん。 ieyasu.hatenablog.jp ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中【公式】2023年開設ブログ ランキング参加中ブログ仲間増やしたい方全員集合!✨ 初心者も上級者も誰でも参加O…
長篠城まとめ(その2)です。まとめ(その1)はこちら。 ↑上の写真の拡大 ↑上の写真の拡大 鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の墓 JR飯田線の「鳥居」駅 ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康 ランキング参加中【…
天竜川の河口にある磐田市掛塚は天竜川を使い遠州北部からの材木を集め、遠州の湊として利用されていました。また、材木加工のために、のこぎり鍛冶が盛んでした。 家康の側室となるお愛の方(西郷局)の実母の再嫁先の服部正尚が鍛冶として掛塚に潜伏してい…
謀反を計画したために、大岡弥四郎(あるいは大賀弥四郎)は、岡崎の街の辻で土に埋められ、その首を通行人に竹鋸で引かれたとされます。その場所はどこだったのでしょうか? 現在は名鉄の東岡崎の駅が玄関になっています。 当時は浜松から来た場合、岡崎城…
現在、岡崎から浜松、見付(磐田)に行く場合は、東海道が基本になっていますので、吉田(豊橋)から新居、弁天島、舞阪を通って、浜名湖を渡る経路を思い浮かべると思います。JRの東海道本線、東海道新幹線、バイパスでわかりにくくなりましたが国道1号線…
浄珠院には、1563年から64年の三河一向一揆の時、家康の本陣が置かれ、制圧のため、自ら指揮をとりました。激しい戦の後、一揆方から提案された和議の案がここで成立しました。 JR岡崎駅近くにあるイチョウの木が印象的な寺院です。 ランキング参加中日本史 …
いろいろな場所にある家康像を集めてみました。 どこにあるのか、わかりますか? ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康
長篠城まとめです。
長篠・設楽原の戦い、特に設楽原の戦いがどんなものであったのかは、このあたりを訪れてみることで、よく理解できます。 長篠の戦いと言われることも多いですが、長篠と設楽原の間は5キロメートルくらいあります。異なる場所といってもよいくらいです。また…
設楽原の戦いの際の武田勝頼の観戦地とされる場所です。 山の中を歩いていきます。 上から下を見下ろす ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康
武田四天王は、馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信の4人です。 長篠・設楽原の戦いでは、武田四天王のうち、3名が命を落としています。それぞれの塚を訪ねてみました。 設楽原歴史資料館での展示より 新城市設楽原歴史資料館:新城…
今回は、鳥居強右衛門(とりい すねえもん)関係の場所です。 長篠城址の本丸・野牛曲輪跡 長篠城址は、寒狭川(現在は豊川とよかわ、左)と大野川(現在は宇連川うれがわ、右)が合流する場所にあります。鳥居強右衛門磔の地は左側の豊川側にあります。 鳥…
武田四天王は、馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信の4人です。 長篠城址の西側少しのところに、馬場信房の墓碑と中央構造線の露頭があります。 左側に見える木のかたまりが馬場信房の墓碑です。 中央構造線露頭 林の中を歩いていく…
長篠城攻めにあたり武田方の陣地となった天神山と医王寺です。 天神山 戦いの際、天神山に一条信龍、土屋昌次、真田信綱、昌輝ら2000名が布陣した陣所ということです。医王寺の南200メートルにあります。 医王寺 弥陀が池 ランキング参加中日本史 ランキング…
日本史のなかでも徳川・織田vs武田の戦いである長篠・設楽ヶ原の戦いは、特に重要な合戦だと思います。長篠城跡そのものを見学する機会はあると思いますが、今回のシリーズでは城でない部分を中心に回ってみました。 長篠城跡の北側にある大通寺には、盃井と…
家康の生誕の地である西三河の岡崎、家康が17年という長期間を過ごした遠江の浜松。 一方、西三河と遠江にはさまれた東三河は、長篠などの戦いの跡が残されていたり、家臣団との強い関わりが見られる一方で、家康そのものの足跡はそれほど大きくありません。…
渥美半島の田原市にある田原城は、当初、戸田氏の渥美半島支配の拠点でした。 1547年、戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河に送られることになっていた竹千代(家康)を護送する予定でしたが、寝返って織田信秀に渡したとされます。その結果、田原…
豊川市にある伊奈城跡と花ケ池は、三つ葉葵の紋の発祥の地とされています。 伊奈城跡 土塁 フタバアオイ 花ケ池公園 伊奈城跡の少し北側、東海道新幹線の横にある花ケ池公園。 暗くなっているところは、東海道新幹線の土塁です。 東漸寺 伊奈本多氏の菩提寺…
蒲郡の上の郷城は忍者によって落城した最初の城とも伝わっています。 鵜殿長照は討ち取られ、その息子2人は、家康側に生け捕りにされました。そして、駿府の今川側に留まっていた瀬名姫(築山殿)と2人の子供(後の信康と亀姫)との人質交換となりました。 …
愛知県の三河湾の海岸沿いにある蒲郡(がまごおり)。 そこにある上ノ郷城は、鵜殿氏が本拠地としていた城ですが、家康が忍者を使って陥落させ、その後、家康の生母の於大の方の再婚相手である久松俊勝の居城となりました。1590年家康の関東移封により、廃城…
吉田城は、愛知県東部(東三河)にある豊橋市のシンボルです。 1564年、家康は、吉田城を攻略し、城主に酒井忠次をおいて、東三河を支配しました。 その後、秀吉配下にあった池田輝政(照政)が、吉田城の城主となり、城郭を改造。池田輝政は、徳川家康の娘…