長篠・設楽原の戦い、特に設楽原の戦いがどんなものであったのかは、このあたりを訪れてみることで、よく理解できます。
長篠の戦いと言われることも多いですが、長篠と設楽原の間は5キロメートルくらいあります。異なる場所といってもよいくらいです。また、設楽原というと、非常に広い「原」が広がっているような印象を受けますが、実際は、こんな感じで、丘と丘に囲まれた長い谷のような場所です。
連吾川沿いの竹広激戦地
新城市立東郷中学校(新城市竹広)の北側の丘陵が徳川家康の本陣が置かれた「弾正山」(断上山古墳10)。左(西)が八剱神社で、右が物見台。
家康物見台
家康物見台から東側の武田方を見る
向こう側には、山県昌景の塚などがあります。
断上山古墳10を利用したという
一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく
日本一短い手紙の基となった本多作左衛門重次が陣中からあてた手紙
新城市立東郷中学校の「平成の馬防柵」
八剱神社
こちらは南側を向いています
北に行ったところにある馬防柵