1560年、桶狭間の戦い(永禄3年5月19日(1560年6月12日))の年。
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その年、駿府(静岡市)には、駿府から出陣した元康(家康)に関わりのある2人の女性がいました。
源応尼(華陽院、於富)
家康の母である於大の方の母であり、家康の祖父である松平清康の後妻(家康の祖母)。その血縁関係については異説があるようです。駿府(現在の静岡市)で、竹千代の養育に関わったとされています。1560年、死去(永禄3年5月6日(1560年5月30日))。元康(家康)が、今川義元の先陣を受け浜松にいた時、源応尼の訃報に接し、墓を知源院(後に華陽院)にして、松を墓に植えることを依頼したと言われています。
華陽院の墓は静岡市葵区鷹匠の玉桂山華陽院(浄土宗)にあります。3歳で歿した家康の5女であった市姫の墓が隣に並んでいます。同寺院には家康死去の翌年に亡くなったとされる側室、お久の方の墓もあります。
静岡市の華陽院にある源応尼(華陽院)の墓碑。右にある松のある大きな墓碑が市姫の墓碑。
街中にある華陽院。
寿桂尼
寿桂尼(じゅけいに、1568年没)は、今川氏親(義元の父、氏真の祖父)の正室。義元とは血縁関係はないとされる。桶狭間の戦い(1560)の後の今川氏没落の最中、今川館にて死去。「死しても今川の守護たらん」という遺命により、今川館の鬼門である東北の方角にあたる龍雲寺(静岡市葵区沓谷、曹洞宗)に埋葬されました。龍雲寺の説明によると、五輪二基のほか石塔があるが、どれが寿桂尼の墓であるか不明だといいます。寿桂尼の死後、今川氏と武田氏の外交関係は断絶し、1568年12月には武田氏による今川領国への侵攻、それと同時に徳川氏による遠江侵攻が開始されました。
龍雲寺にある寿桂尼の墓所とされるところ。山の中にあり、墓所周りはほとんどメインテナンスされていない。
龍雲寺の墓地から北側を望む。