徳川家康の正室であった築山殿は、1579年、浜松の西側にある佐鳴湖を渡った湖畔で命を落としたとされています。
現在、浜松医療センター前の太刀洗の池は見ることができなくなっています。
佐鳴湖の北東の風景。
陸に閉ざされた湖のようにみえる佐鳴湖には浜名湖の海水が少し流入することがあるため、ボラ、スズキ、ハゼといった汽水の生物も生息しています。
西来院
築山殿の首塚とされるものは、岡崎市の動物園に近い場所にあります(岡崎市の祐傳寺、後に天保時代に、八柱神社に移された)。
そして墓所は浜松城の西側にある西来院(せいらいいん)にあります。
月窟廟(げっくつびょう)といいます。
松平康俊
月窟廟の左隣りには、月窟廟より大きめな墓碑があります。これは松平康俊の墓碑です。
家康の実母である於大の方と久松俊勝の間には6人の子供がいました。
松平康元
松平康俊
松平定勝
多劫姫
松姫
天桂院
松平康俊は、於大の方と久松俊勝の間に生まれた3人の男子のうちの一人です。つまり家康とは異父同母の兄弟の関係にあります。
松平康俊は1563年に今川氏真の人質になっていました。しかし、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻することで武田氏に確保されてしまいました。1570年、家康の手配によって甲斐から三河に脱出することに成功しました。この時、山を大雪の中で踏破したために、両足の指を凍傷で失ったとされます。このことが、於大の方が自子を豊臣秀吉に人質のようにして出すことを躊躇するようになった理由とされています(そのため、家康は実子の秀康を秀吉に出した)。
左側の松平康俊の墓碑の門には三つ葉の紋がついています。一方、右側の月窟廟はそうではありません。