凧といえば、浜松の大凧。遠州地方では、袋井の丸凧、大須賀の遠州横須賀凧といった凧も知られています。特に冬に海岸部で風が強い「遠州のからっ風」を利用した凧。
そして、戦国時代には軍事目的に凧が利用されたと言われています。
浜松まつりの凧揚げ合戦
5月の浜松まつりでは中田島で凧揚げ合戦が行われます。
永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった飯尾連龍の長男・義広の誕生を祝って、義広の名前を記した大凧を揚げた、という「浜松城記」の記述が定説となっていました。しかし、これは大正時代の創作であるとされています。
お田鶴の方(椿姫)
飯尾連龍の妻が、お田鶴の方(椿姫)です。飯尾連龍は徳川家康に内通したとして、今川氏真に殺されました。お田鶴の方は、鵜殿長持の娘であり、家康の最初の側室であった西郡局(蓮葉院)とも、近い関係にあったとされています。
そして、お田鶴の方は、おんな城主として、徳川軍を前に引馬城に立てこもり討ち死にしました。お田鶴の方のことをよく知る家康の正室・築山殿が100本余りの椿を植えたことで、椿姫と呼ばれるようになったといいます。
椿姫観音
日本の3大砂丘のうちの一つで、浜松の遠州灘海岸にある中田島砂丘の公園。
浜松まつり会館もここにあります。
袋井の丸凧
遠州地方では、袋井の丸凧、遠州横須賀凧もよく知られています。東海道53次の真ん中にあたる袋井宿の説明板にも丸凧の説明があります。
どまん中丸凧ギャラリー
あやしげな家屋。この場所は開いているのでしょうか。
浜松まつり会館に展示されている袋井の丸凧(左)
遠州横須賀凧
下のサイトから引用
横須賀凧の歴史は古く、戦国時代、武田方と徳川方による高天神合戦の際に、敵の陣地の測量や通信手段などに利用されたのが、その始まりといわれています。
いっぽう横須賀凧が祝凧として多彩になったのは江戸時代になってからです。元禄年間(1688~1703年)、時の城主西尾隠岐守忠尚公の加増を祝って、家臣たちが凧を揚げたことに由来すると伝えられています。
浜松まつり会館に展示されている遠州横須賀凧
天竜川の玉丸石垣で知られる横須賀城は、徳川家康が武田側となった高天神城攻略の拠点として築いたものです。その後も江戸時代にはこの地域支配の拠点となりました。遠州横須賀凧まつりはこの近くで行われます。
遠州灘沿岸に設置された風力発電
中田島砂丘近くで青空にあがる凧