家康は、磐田市中泉の中泉御殿を頻繁に利用していましたが、見付城(現在の磐田市)の築城中など、しばしば見付のどこかにも滞在していたものと考えられます。磐田市見付に伝わる家康と安間平治弥の話です。
安間平治弥
「遠州磐田郡見附宿安間平次弥記」には、見付に来た家康が安間平次弥方に滞在し、そこで清水を見たという記録があるそうです。安間平治弥の宅の跡となる場所では、今でもこの清水をみることができます。
また、浜松の三方原合戦を伝える犀ヶ崖資料館には、安間家の勝軍地蔵が伝わっています。
安間平治弥屋敷跡にある説明文から
「平治弥は、本名弥平治、名は禮、字は伯敬、号九渕と称し、漢学の素養もあり詩文もよくした。家康から代官に任命され、甲州武田勢を退去させた功績で家康に平治弥と改名させられ、帯刀を許され、見付に住むように申し付けられた。庭には清水が湧出し、年中枯れる事がなく、之を家康に薦めたので御清水というようになった。町名もこれにあやかって、清水町となったと言う。」
家康も見た湧き水
家康が見たという清水は、片桐医院の庭として知られており、今でも水が湧き出しています。
勝軍地蔵
浜松市の犀ヶ崖資料館にある宗円堂の「勝軍地蔵」と見付の安間家の説明
なお犀ヶ崖資料館は、三方原合戦の犠牲者の霊をまつった宗円堂という場所でした。