徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

見付端城と徳川家康の猶子の供養塔

見付(磐田市)は遠江国の中心で古来から国府が置かれていました。

家康による見付の築城

1567年、徳川家康は遠江の国に入った後、引馬(浜松城)に拠点を定めました。しかし、その前に見付(現在の磐田市)に大規模な築城を試みたと言われています。この城の築城は途中で中止され、未完成だったことから、名称はありませんが、「城之崎城」と呼ばれることがあります。ここでは、見付の未完成城とでも呼んでおきます。

見付の未完成城の位置は、現在、磐田城山球場、磐田市立城山中学校となっている場所です。堀の位置など、見付の未完成城の設計がどうなっていたのか、気になります。いずれにしても、東(仮想敵の武田)から攻められた場合、天竜川が西になり、背後に位置するというのは、問題であるような気がします。逆に、仮想敵を西の織田とした場合には、こちらの方が守りやすいかもしれません。

 

旧見付学校の最高階からみる見付の未完成城(城山球場のナイター設備が見える)

見付端城

見付端城は、徳川家康が作ろうとした見付の未完成城とは別のものです。

高台になった見付の未完成城(城山球場)から見る見付の街。中心部にある森が遠江の国の総社「淡海國玉神社」と旧見付学校(伝・酒井の太鼓がある)で、そのすぐ東側(右側)がこれから説明する見付端城(みつけはじょう)があった場所です。

古来遠江の国府が置かれていた見付の南には、天平時代の国分寺跡、国分尼寺跡、また、見付の北には、大規模な一の谷墳墓群遺跡があります。国府は、見付端城のあった場所にあったと言われています。

 見付端城は、南北朝期に今川範国が居館を築いて以来、遠江今川氏(今川了俊から堀越氏)が利用していました。花倉の乱で、見付端城の堀越用山は義元に反抗しましたが、義元側に攻められ廃城となりました。その後、今川氏真により復旧されましたが焼失し、廃城となったとされています。

 見付端城があったのは、現在の大見寺から磐田市立北小学校のあたりでした。現在ではほとんどその遺構はありませんが、大見寺の西側の土塁が見付端城のものと言われています。

旧見付学校の最高階からみる見付端城の推定地(中心よりやや右側の大見寺の緑の屋根、見付交流センターの長い緑の屋根、更に左側の磐田市立北小学校あたり)

見付交流センターにある見付端城の標識、磐田市立北小学校の南側の門

 

磐田市埋蔵文化財センターに展示されている見付端城からの出土品

大見寺

大見寺の境内からはわかりにくい見付端城の土塁。外にでて駐車場から。

この土塁の寺側には、このような供養塔があります。

良純法親王墓

後陽成天皇の第8皇子。当初は徳川家康の猶子として直輔親王と名乗った(1615年)。

徳川家康の猶子の墓がこんなところにありました。

1615年といえば、大阪夏の陣。紫衣事件、公家諸法度など、幕府と朝廷の間に興味深い関係があった時期です。