静岡県西部(遠江)に広がる三方ヶ原台地と磐田原台地は、日本を代表する洪積台地(こうせきだいち、diluvial upland)です。大昔に、天竜川の扇状地が隆起したものです。これらの台地は、標高100〜200メートル程度と低いのが特徴です。なお、洪積diluvialは、「ノアの大洪水」を意味しているので、最近は科学用語としては不適切ということで使われなくなってきているようです。
三方ヶ原の戦い
徳川家康の軍が、武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いですが、この合戦の本戦を含めて、その前後の戦いでも、この2つの台地の特徴的な地形が大きく関わっています。
三方ヶ原の戦いの前哨戦は、三ヶ野(磐田市東部、太田川・袋井市側)、見付宿、一言坂(磐田市西部、天竜川・浜松市側)、挑燈野と、東から西に行われたといいます。
大日堂
三ヶ野は、磐田原台地の東側、太田川の西側にあたります。三ヶ野にある大日堂の高台には、本多平八郎物見の松があったといいます。台地上からは、東側を広く見渡すことができます。この南方には、台地から平野部への移行地形を利用した御厨古墳群(国の史跡)もあります。
古戦場 大日堂(東海道 - 袋井~見附) - 旧街道ウォーキング - 人力
東海道の松並木が残っています。
見付宿
東海道53次の宿場として発展しましたが、南側には今の浦(大池を含む)という湿地帯を望む磐田原台地下の南端に位置しています。三方ヶ原の戦いの前には火がはなたれました。
東側から見付宿を望む。
磐田市の城山球場
徳川家康が浜松城の築城前に、拠点としての大規模な築城を試みた場所として知られています。この地が捨てられた理由としては、水利上の理由、天竜川との位置関係で武田との対峙に不利だと思われたこと、などが挙げられています。
この場所から東につながる台地上は現在、工場地帯となっており、ヤマハ発動機やジュビロ磐田スタジアムなどがあります。
一言坂の戦い
三方ヶ原の戦いの前哨戦、徳川側撤退戦としては、最も有名な戦いです。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
一言坂は、磐田原台地の西側に相当します。
天竜川の方に向かって、下り坂となっています。
下り坂。遥か彼方にJR浜松駅のアクトタワーが見えます。
ここを下った場所で起こった挑燈野(ちょうちんの)の戦では、沼地を利用して、徳川軍が武田軍に一矢を報いたといいます。
一言観音