「高天神を制するものは遠州を制す」とされ、徳川と武田の争奪戦が行われた高天神城。この城は、ケスタ(Cuesta)地形と呼ばれる波状の地形が利用された場所に作られた山城です。実際に歩いてみると、まさに戦国の要塞という印象を受けます。
また、数多くの植物や野鳥の宝庫である小笠山から続く丘陵地で、日本の中心部にかつて見られた豊かな温帯広葉樹林の里山の風景が残る場所でもあります。
三日月井戸と高天神社
馬場平から遠州灘をみる。戦国時代には、遠州灘の海岸線は城の近くにありました。近くが水軍の基地になっていたといいます。
石垣がある城でなく、複雑な要塞のような作りになっています。
大河内石窟
徳川軍が作ったという砦
以前は模擬天守があったという
高天神城のある地域は、小笠山からつながる自然の残った場所です。高い部分では、日本の温帯のこの地域にもともとあった常緑広葉樹林が見られる場所になっています。カシ(ウバメガシ)、シイ(スダジイ)、アカモモなどの林です。
高天神城の高い場所に広がる常緑広葉樹林
一方、低地では、人工的なスギの植林が見られます。このあたりの植生の違いが際立っています。大手門のスギというのは、樹齢が300年ほどというので、おそらく戦国時代にはまだなかったと思います。
こちらが大手門の跡
岡部丹波守元信(真幸)と板倉定重の墓。
現在、工事中で保護されています。岡部元信については、説明する必要はないと思います。
板倉定重は、江戸初期の京都所司代板倉勝重の兄です。
たまたま掛川城の二の丸博物館で掛川3城についての特別展が開催されていました。
そこでは高天神城のジオラマが展示されていて、写真撮影OKということでした。
北の搦手門側からの撮影。搦手門側は、北側の大きな駐車場がある場所です。
右側(西)が攻撃を受け止める側なのに対し、左側(東)は居住空間となっています。
南の大手門側(右前方)からの撮影。こちらは、東側の小さな駐車場がある場所です。