清須同盟、清須会議、関ケ原直前の拠点、清須超えなど、歴史上の重要なイベントで知られる清須城。江戸時代始めに書かれた「三河物語」には「清須」、「信長公記」には「清洲」と書かれています。現在は市名、駅名などに「清須」が使われていますが、清須超え以降は「清洲」とする説もあります。
模擬天守から五条川、清須城跡を望む。
模擬天守内部。
清須城の土塁を再現したもの。
徳川家康が清須城から現在の名古屋城に城と街を移した「清須超え」は、現在の名古屋の発展のきっかけとなった重要なイベントです。徳川家康というと、江戸(東京)を作った人物としても知られていますが、名古屋のきっかけを作った人物としても認識されるべきでしょう。
清須が捨てられたのは、しばしば洪水の被害にあっていたこともありますが、特に重要なのは、天正13年(1586年1月18日)に中部地方で発生した天正地震で液状化していたことが大きな理由だったと言われています(織田信雄による修理)。天正地震が秀吉と家康の関係に大きな影響を与えたことはよく知られていますが、一方で、福井、長浜、そして名古屋にかけての地域でこれだけの大地震が起こったという事実は、今後も心しておくべきでしょう。