徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

寺院

二俣城と鳥羽山城

2005年までは、天竜市と呼ばれていた浜松市天竜区の天竜二俣地区。その前には二俣町と呼ばれていました。行政区画の名称や範囲が変更になると地域のアイデンティティを捉えるのがなかなか難しいところです。 天竜市 - Wikipedia ここにある二俣城(ふたまた…

徳川家康の側室・茶阿局と金谷

茶阿局(お久の方、ちゃあのつぼね)は、家康の6男である松平忠輝の生母です。家康の晩年、政治的にも重要な役割をした阿茶局(雲光院、あちゃのつぼね)とは別人物です。 松平忠輝というと、伊達政宗の娘である五郎八姫(いろはひめ)と結婚しましたが、終…

掛川城と花・鳥

徳川家康に攻められた今川氏真が最後に朝比奈氏のもとで籠城した掛川城。 後に土佐藩主となる山内一豊が城主として10年間過ごし、戦後初の木造再建された天守で知られる掛川城。関ヶ原の戦いの前には、小山評定で山内一豊が掛川城を家康に提供するという発言…

横須賀城と遠州灘

徳川家康が高天神城攻めのために作らせたという横須賀城。 この城は、平城で、明治維新まで使われていた城です。 天竜川より運んだという玉石垣を用いた築城に特徴があります。 この城のすぐ南は遠州灘。遠州灘は太平洋そのもので外海なので波も常に高く、南…

徳川家康ゆかりの浜松広沢3寺院と金魚

普済寺、西来院、宗源院(下の「家康の散歩道」の地図で、16, 17, 18)は、浜松城の西側、広沢にある3つの曹洞宗の寺院です。広沢というように、昔はこの地に大きな池があったようですが、現在ではそのようなものは見られません。なお、この地区の道はかなり…

家康の側室・お万の方と龍華寺

徳川家康の側室で「お万の方」と呼ばれる人物は2名います。 一人は結城秀康の生母、長勝院(於古茶(おこちゃ)、小督局)で、もともとは築山御前の奥女中であって、浜松時代に秀康を生んだ人物です。北ノ庄の城主となった秀康のもとで、1620年に亡くなって…

徳川家康と丸子宿

駿府(府中)の西隣りの宿場。とろろ汁で有名ですが、山に囲まれた風情のある街となっています。 誓願寺 誓願寺(臨済宗妙心寺派)は、源頼朝の開基でしたが、焼失したため、武田信玄によって再建されました。豊臣秀頼の家老であり、方広寺鐘銘事件の弁明、…

徳川家康の駿府城

静岡県庁21階から見る駿府城を紹介したいと思います。 大御所家康像から、天守発掘現場、臨済寺、そして南アルプスの山々。 南アルプスの山々。3000メートルを超える赤石岳、聖岳は、政令指定都市である静岡市内にある山々です。 天守台の発掘現場。 臨済寺 …

徳川家康と遠州三山

遠州三山は、静岡県西部の袋井市内にある「法多山」「可睡斎」「油山寺」と、歴史のある大きな寺院です。それぞれが徳川家康と関係があります。 法多山尊永寺 (高野山真言宗)萬松山可睡斎 (曹洞宗)医王山油山寺 (真言宗智山派) 法多山 法多山といえば…

徳川家康の側室3人の菩提寺

徳川家康の側室のうち、政治外交的な役割をした阿茶局などに対して、西郷局(お愛の方)、養珠院(お万の方)、相応院(お亀の方)は、二代将軍の秀忠、御三家の当主の生母として重要な存在になっています。 西郷の局 二代将軍である徳川秀忠は掛川出身の西…

徳川家康の2正室の墓@静岡県

徳川家康の正室、2人の女性はそれぞれ戦国時代に人生を翻弄されました。 築山御前 佐鳴湖(@浜松市)の湖畔に散ったとされる築山殿。遺体は浜松市中区広沢の西来院(曹洞宗)に葬られました。首塚は、岡崎市の祐傳寺(後に八柱神社に移された)にあります。…

徳川家康ゆかりの2人の女性の墓

1560年、桶狭間の戦い(永禄3年5月19日(1560年6月12日))の年。 西暦と和暦の変換は以下のサイトが役立ちます。 その年、駿府(静岡市)には、駿府から出陣した元康(家康)に関わりのある2人の女性がいました。 源応尼(華陽院、於富) 家康の母である於…

再現された竹千代手習いの間

駿府での人質時代、竹千代は学問を学んだとされています。 臨済寺と清見寺の住職であった太原雪斎から学んだという説もあります。竹千代手習いの間というのが復元されています。 興津の清見寺に再現された竹千代手習いの間 パノラマ撮影。方丈(部屋)は小さ…

佐鳴湖と築山殿、そして松平康俊

徳川家康の正室であった築山殿は、1579年、浜松の西側にある佐鳴湖を渡った湖畔で命を落としたとされています。 現在、浜松医療センター前の太刀洗の池は見ることができなくなっています。 佐鳴湖の北東の風景。 陸に閉ざされた湖のようにみえる佐鳴湖には浜…

岡崎の「明大寺町西郷中」と「築山」という場所

明大寺町西郷中 愛知県岡崎市には、文科省の自然科学研究機構の3つの自然科学系研究所(分子科学研究所、生理学研究所、基礎生物学研究所)があります。もともとは、愛知教育大学のキャンパスだったそうです。この研究所の住所は、「岡崎市明大寺町西郷中」…

徳川家康の好物?

徳川家康が健康に関心が高く、食べ物にも気をつかっていたことはよく知られています。 よく言われるのは、粗食、晩年は天ぷらとも言われ、鯛の天ぷらが死因だったという話は有名です(おそらく直接の死因ではない)。今では、日本料理として認識される天ぷら…

逃げる徳川家康と遠州七不思議

金ヶ崎の退き口、伊賀越え、大阪夏の陣など、徳川家康には逃げるというイメージが強いです。特に、遠州地方には「逃げた話」がたくさん伝わっています。最終的には勝者になるので、その負けたり逃げたりするエピソードはいろいろ話になりやすいのでしょう。 …

伝・家康しかみ像を集める

この絵はあまりに有名ですが、「徳川家康三方ヶ原しかみ像」というのは「脱糞」や「人の一生は重荷を負うて」とともに、史実としては否定されているというのが常識になっています。 実物は名古屋の徳川美術館にあるということですが、見たことがありません。…

長篠合戦と三波川変成帯の緑石、中央構造線

徳川家康が当初活動した三河から遠江の地域は、地史的にも興味深いところです。特に、変成岩の種類が興味深いです。 領家変成帯と三波川変成帯 現在は浜松市になっている天竜区水窪町奥領家は、領家変成帯と呼ばれる重要な変成帯の名称の起源になっています…

徳川家康の鷹狩り@遠江

遠江 遠江、遠州というと、琵琶湖がある近江に対して、浜名湖のある遠江と説明されることが多いですが、天竜川河口付近を指すという説明もあります。これは、遠江の国府が現在の磐田市にあったからです。 ja.wikipedia.org JR浜松駅前のアクトタワーから東方…

三公ゆかりの頭陀寺とウィンドファーム

今回は、秀吉、家康、井伊直政の3人のゆかりのお寺、頭陀寺と当時の天竜川河口付近について考えてみます。 頭陀寺 頭陀寺(ずだいじ)は、浜松市南区にある高野山真言宗の寺院で、浜松市で最古の寺と言われます。 戦国時代には、今川氏の庇護で繁栄しました…

徳川家康と「テレビの父」高柳健次郎

妙恩寺 現在の浜松市東区の妙恩寺。 1568年、家康が井伊谷を経て、遠江入りをした時、陣を置いた場所として知られています。その後、頭陀寺を経て、引間城(浜松)に入ったといいます。 十二月十四日 家康鹿島、天竜川渡り、米倉 天竜川東を南下、池田より天…

家康の側室・西郡局と豊田佐吉

西郡局 本興寺(ほんこうじ)は、静岡県湖西市にある法華宗の寺院。 室町時代、鵜殿氏(うどのし)は現在の愛知県蒲郡市あたりを支配していましたが、本興寺の住職により、法華宗(日蓮宗)の信者となりました。戦国時代になると、鵜殿氏の一族が本興寺の住…

徳川家康と本田宗一郎(1)

本田宗一郎 本田技研工業(ホンダ)創業者の本田宗一郎は、1906年、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)に生まれた。1919年、二俣町立二俣尋常高等小学校(現・浜松市立二俣小学校)入学。 二俣城址 武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい攻防を繰り広げた二…