徳川家康で学ぶ科学・技術

徳川家康をきっかけに科学や技術の理解を深めます。歴史、観光情報、グルメから、先端の科学技術まで勉強できてしまう全く新しいブログです。コメントや連絡も一番下のコメント欄でお待ちしております。

浜松

徳川家康と3河川

徳川家康にも関わりの深い天竜川、大井川、安倍川の3つの河川の風景です。 天竜川:池田の渡し 三方ヶ原の戦いの前の武田方との攻防では重要な意味を持った天竜川。東海道も姫街道もここは共通の池田の渡し。有名な熊野(ゆや)の藤の近くにあります。 池田…

徳川家康の側室3人の菩提寺

徳川家康の側室のうち、政治外交的な役割をした阿茶局などに対して、西郷局(お愛の方)、養珠院(お万の方)、相応院(お亀の方)は、二代将軍の秀忠、御三家の当主の生母として重要な存在になっています。 西郷の局 二代将軍である徳川秀忠は掛川出身の西…

徳川家康と東海道三大グルメ

江戸期の東海道の三大食べ物名物は、 「新居の鰻蒲焼 」 「丸子のとろろ汁 」 「桑名の焼蛤」 と言われていたそうです。 徳川家康に関係した場所では、 「岡崎の八丁味噌」 「浜松の鯉鮒料理」 「府中(静岡)の安倍川餅」。 岡崎の八丁味噌と府中の安倍川餅…

徳川家康の2正室の墓@静岡県

徳川家康の正室、2人の女性はそれぞれ戦国時代に人生を翻弄されました。 築山御前 佐鳴湖(@浜松市)の湖畔に散ったとされる築山殿。遺体は浜松市中区広沢の西来院(曹洞宗)に葬られました。首塚は、岡崎市の祐傳寺(後に八柱神社に移された)にあります。…

徳川家康と「やらまいか」

今回は、これまでの記事を土台にして、徳川家康と「やらまいか」として紹介しておきます。 本田宗一郎 本田宗一郎ものづくり伝承館(浜松市天竜区)とホンダ浜松工場 山葉寅楠 ヤマハ楽器のイノベーションロード(浜松市)とヤマハ発動機コミュニケーション…

佐鳴湖と築山殿、そして松平康俊

徳川家康の正室であった築山殿は、1579年、浜松の西側にある佐鳴湖を渡った湖畔で命を落としたとされています。 現在、浜松医療センター前の太刀洗の池は見ることができなくなっています。 佐鳴湖の北東の風景。 陸に閉ざされた湖のようにみえる佐鳴湖には浜…

家康の愛した忍冬酒

忍冬酒(にんどうしゅ)は、家康の愛した薬酒とされています。スイカズラ(忍冬)のリキュールといったものです。近年復活したものですが、あちこちで見かけることができます。インターネットでも入手できます。 スイカズラ(吸い葛、学名: Lonicera japonic…

掛川で生まれた西郷の局(お愛の方)

掛川城、高天神城、横須賀城。掛川市は家康とも関係している3つの城で有名ですが、掛川の地は、徳川秀忠の生母として知られる西郷の局(お愛の方、宝台院) の生誕地であると伝わっています。 掛川の龍華院にある「西郷の局」の石碑 西郷の局 最初の側室であり…

徳川家康の好物?

徳川家康が健康に関心が高く、食べ物にも気をつかっていたことはよく知られています。 よく言われるのは、粗食、晩年は天ぷらとも言われ、鯛の天ぷらが死因だったという話は有名です(おそらく直接の死因ではない)。今では、日本料理として認識される天ぷら…

家康の黒歴史とみをつくし

三河を統一した家康が、武田との密約で遠江に侵攻した時に起こった堀川城に対する攻撃。それは、「男女ともになで斬りにしたりける」(三河物語)と伝えられ、徳川の「黒歴史」とも言われています。 気賀に行くと堀川城や獄門畷というものを見ることができます…

伝・酒井の太鼓をあらゆる角度から

空城の計と酒井忠次の酒井の太鼓で知られる三方ヶ原合戦の後の浜松城。 磐田市見付の見付学校には、伝・酒井の太鼓が展示されています。 このNHKニュースによれば、江戸後期に、浜松城に「酒井の太鼓」があったことが確認されているということです。 浜松市…

逃げる徳川家康と遠州七不思議

金ヶ崎の退き口、伊賀越え、大阪夏の陣など、徳川家康には逃げるというイメージが強いです。特に、遠州地方には「逃げた話」がたくさん伝わっています。最終的には勝者になるので、その負けたり逃げたりするエピソードはいろいろ話になりやすいのでしょう。 …

伝・家康しかみ像を集める

この絵はあまりに有名ですが、「徳川家康三方ヶ原しかみ像」というのは「脱糞」や「人の一生は重荷を負うて」とともに、史実としては否定されているというのが常識になっています。 実物は名古屋の徳川美術館にあるということですが、見たことがありません。…

三方ヶ原台地での戦いと遠州鉄道

三方ヶ原の戦い JR浜松駅前のアクトタワーからの眺めです。浜松城、犀ヶ崖(布橋)、銭取、小豆餅という場所が三方ヶ原台地の南北に沿って、点在している様子がわかります。 一方、台地から降りたところにある現役の遠州鉄道(西鹿島線)はJR浜松駅前から北…

磐田原台地での三方ヶ原前哨戦

静岡県西部(遠江)に広がる三方ヶ原台地と磐田原台地は、日本を代表する洪積台地(こうせきだいち、diluvial upland)です。大昔に、天竜川の扇状地が隆起したものです。これらの台地は、標高100〜200メートル程度と低いのが特徴です。なお、洪積diluvialは…

長篠合戦と三波川変成帯の緑石、中央構造線

徳川家康が当初活動した三河から遠江の地域は、地史的にも興味深いところです。特に、変成岩の種類が興味深いです。 領家変成帯と三波川変成帯 現在は浜松市になっている天竜区水窪町奥領家は、領家変成帯と呼ばれる重要な変成帯の名称の起源になっています…

徳川家康の鷹狩り@遠江

遠江 遠江、遠州というと、琵琶湖がある近江に対して、浜名湖のある遠江と説明されることが多いですが、天竜川河口付近を指すという説明もあります。これは、遠江の国府が現在の磐田市にあったからです。 ja.wikipedia.org JR浜松駅前のアクトタワーから東方…

三公ゆかりの頭陀寺とウィンドファーム

今回は、秀吉、家康、井伊直政の3人のゆかりのお寺、頭陀寺と当時の天竜川河口付近について考えてみます。 頭陀寺 頭陀寺(ずだいじ)は、浜松市南区にある高野山真言宗の寺院で、浜松市で最古の寺と言われます。 戦国時代には、今川氏の庇護で繁栄しました…

徳川家康と「テレビの父」高柳健次郎

妙恩寺 現在の浜松市東区の妙恩寺。 1568年、家康が井伊谷を経て、遠江入りをした時、陣を置いた場所として知られています。その後、頭陀寺を経て、引間城(浜松)に入ったといいます。 十二月十四日 家康鹿島、天竜川渡り、米倉 天竜川東を南下、池田より天…

家康の側室・西郡局と豊田佐吉

西郡局 本興寺(ほんこうじ)は、静岡県湖西市にある法華宗の寺院。 室町時代、鵜殿氏(うどのし)は現在の愛知県蒲郡市あたりを支配していましたが、本興寺の住職により、法華宗(日蓮宗)の信者となりました。戦国時代になると、鵜殿氏の一族が本興寺の住…

徳川家康と山葉寅楠

浜松の大河ドラマ館がオープンしています。 この会場は、現在は存在しない「浜松尋常小学校、元城小学校」の跡地です。 山葉寅楠 山葉寅楠は、1887年に浜松尋常小学校(1943年に元城小学校となる)から、米国製オルガンの修理を依頼されました。そのオルガン…

徳川家康と本田宗一郎(2)

徳川家康と本田宗一郎がほぼ同じ場所から、その後の人生を切り開いていったことはあまり知られていない。 アート商会 本田宗一郎ものづくり伝承館に掲示されている当時の浜松の地図(戦前、1935年から1945年ごろ)。本田宗一郎氏の「アート商会」が見える。 …

徳川家康と本田宗一郎(1)

本田宗一郎 本田技研工業(ホンダ)創業者の本田宗一郎は、1906年、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)に生まれた。1919年、二俣町立二俣尋常高等小学校(現・浜松市立二俣小学校)入学。 二俣城址 武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい攻防を繰り広げた二…

おんな城主「お田鶴の方」とツバキ

お田鶴の方、築山殿(瀬名姫、家康の正室)、西郡局(徳川家康の側室。お田鶴の方の姉妹。督姫[北条氏直、池田輝政の室となる]の母)、早川殿(北条氏康の子、今川氏真の正室)、実在も疑問視される井伊直虎とは、今川家、関口家、井伊家などの間で諸説が入…

徳川家とうさぎ

家康より9代祖先の松平氏の始祖とされる、松平有親(ありちか、=得川有親)・親氏(ちかうじ)の親子が三河の地に来た時に、うさぎについての逸話がある。それ以来、徳川家では正月に「うさぎ汁」を食べるようになったといいます。 得川有親 - Wikipedia 浜松注…

胞衣塚(えなづか)、母衣(ほろ)、産湯井(うぶゆのい)

胎盤、胞衣、母衣とは 胎盤(たいばん)って、知っているようでよく知らない人が多いです。 クイズです。胎盤の組織の細胞が持っている遺伝子は誰のものでしょうか? 母親 胎児 母親と胎児の両方 中世においては、胞衣(えな)を埋める場所の習俗が東西では…