戦
長篠城攻めにあたり武田方の陣地となった天神山と医王寺です。 天神山 戦いの際、天神山に一条信龍、土屋昌次、真田信綱、昌輝ら2000名が布陣した陣所ということです。医王寺の南200メートルにあります。 医王寺 弥陀が池 ランキング参加中日本史 ランキング…
日本史のなかでも徳川・織田vs武田の戦いである長篠・設楽ヶ原の戦いは、特に重要な合戦だと思います。長篠城跡そのものを見学する機会はあると思いますが、今回のシリーズでは城でない部分を中心に回ってみました。 長篠城跡の北側にある大通寺には、盃井と…
渥美半島の田原市にある田原城は、当初、戸田氏の渥美半島支配の拠点でした。 1547年、戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河に送られることになっていた竹千代(家康)を護送する予定でしたが、寝返って織田信秀に渡したとされます。その結果、田原…
蒲郡の上の郷城は忍者によって落城した最初の城とも伝わっています。 鵜殿長照は討ち取られ、その息子2人は、家康側に生け捕りにされました。そして、駿府の今川側に留まっていた瀬名姫(築山殿)と2人の子供(後の信康と亀姫)との人質交換となりました。 …
愛知県の三河湾の海岸沿いにある蒲郡(がまごおり)。 そこにある上ノ郷城は、鵜殿氏が本拠地としていた城ですが、家康が忍者を使って陥落させ、その後、家康の生母の於大の方の再婚相手である久松俊勝の居城となりました。1590年家康の関東移封により、廃城…
横須賀城は、家康が高天神城攻めの拠点として作った城です。江戸時代になっても、横須賀藩の城として利用され続けた城でした。 明治時代になると、現在の磐田市にある見付学校の建設のために、横須賀城から払い下げを受けた石垣が利用されました。 土台とな…
家康に攻められた今川氏真が立てこもった掛川城、小山評定で山内一豊が家康に差し出した掛川城。武田と徳川の攻防戦が繰り返された高天神城。高天神城攻めの拠点として利用された横須賀城。掛川市には興味深い城が3つあります。武田の拠点となった諏訪原城…
今回は、最近、公開が再開された掛川城と周りの風景です。 前回は、こちら。 大手門 ここからの天守が一番美しいと言われているようです。 こういうところは意図的に残しているのでしょう 霧吹き井戸 駿府が武田信玄によって攻められたため、今川氏真は、朝…
浜松まつりゆかりの椿姫のアップデートです。 今年の浜松まつりのポスターも。 お田鶴の方 - Wikipedia ランキング参加中日本史 ランキング参加中日本の歴史 ランキング参加中徳川家康
一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)は、三方ヶ原の戦いの前哨戦、徳川側撤退戦としては、最も有名な戦いです。一言坂は、磐田原台地の西側、天竜川の東にあります。 「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」が有名です。 また、しばしば話題…
浜松の家康の散歩道にある3つのマイナー神社について、以前、紹介しました。 一方、静岡市の駿府城の近くにある小梳神社と別雷神社も、家康関係で紹介されるあまり馴染みのない神社です。 小梳神社(おぐしじんじゃ) 梳というのは、髪をとかす「くし」です…
三方ヶ原の戦い。まとめ編です。 三方ヶ原霊園の近くにある「三方ヶ原古戦場」 三方ヶ原合戦の開始は夕方であったと伝えられています。夕方になると、三方ヶ原古戦場の文字がくっきりと浮き上がっています。 犀ヶ崖(さいががけ)資料館 本多忠真顕彰碑 犀ヶ…
先日放送されたNHKの「英雄たちの選択」で家康による見付(磐田市)での築城の試みが大きく取り上げられていました。 「英雄たちの選択」、これほど幻となった家康の見付城を取り上げてくださった番組はなかったと思います。見付城はいまは城山球場で、その…
大高城は、桶狭間の戦いの前に、今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」を行い、成功したことで知られています。 昔は海岸線にあった大高城を訪ねてみました。 大高城やその周辺の織田方2つの砦は、JR東海道線の大高駅付近にあります。 …
岡崎城の北側に少し歩いたところにある松應寺(しょうおうじ)は、家康の父である松平広忠の廟所や松應寺横丁で知られています。小さいけれども印象深い浄土宗のお寺です。 1549年に広忠の菩提を弔うため、1560年に家康が創建したということです。松を見て家…
家康の祖父である松平清康は尾張の守山城で変死し(森山崩れ、守山崩れ)、遺骸は岡崎市中央部にある随念寺で荼毘にふされました。墓所は岡崎城の北側にある大林寺、そして松平家の菩提寺である大樹寺にあります。 7代 清康 安祥松平家の3代。安祥城城主およ…
安祥城(安城城)は、松平氏が居城とした平山城で、松平3代から7代が利用しました。それぞれの関わりは以下のようになります。 3代 信光岩津を拠点にした信光は、応仁の乱中には安祥(安城)、岡崎を攻略し、松平氏発展の基礎を固めました。 松平信光 - Wiki…
法蔵寺は、岡崎市本宿にある浄土宗のお寺です。岡崎市内にありますが、名鉄の電車で東岡崎駅から5駅行ったところにあるので、岡崎城などの観光スポットからは外れています。 本宿は、東海道53次の赤坂宿と藤川宿の間にある場所で、柴田勝家の子孫の命により…
1560年、桶狭間の戦い後、松平元康は今川氏から独立。吉良義昭は家康と対立しましたが、藤波畷の戦いで一旦降伏しました。しかし、1563年になると、西三河で三河一向一揆が勃発し、吉良義昭は家康に再び対抗しました。一揆は解体され、吉良義昭も東条城(愛…
岡崎の玄関というと、どうしても岡崎城に近く、活気のある名鉄「東岡崎」駅になってしまいますが、JR東海道線の「岡崎」駅にも「松平元康像」があります。そして、JR岡崎駅の界隈は、三河一向一揆の拠点となった地域でした。名鉄「東岡崎」からJR岡崎駅とい…
三河には、親鸞がひらいた浄土真宗(一向宗)の門徒が多いとされています。そのきっかけとなったのが、親鸞が東国布教からの帰京の途中、この地に立ち寄り、妙源寺で説法を行ったことだと言われています。妙源寺は、JR西岡崎駅のすぐ北にあります。 また、JR…
磐田市には、中泉御殿やその関連建築、見付の未完成城、伝・酒井の太鼓、一言坂の戦い跡だけでなく、徳川家康ゆかりのものが、いくつかあります。 磐田市役所の前に大きなソテツが植えられています。「お手植えの蘇鉄」というと、その人が直接植樹したものを…
城郭は、時代を経て、様々に変わってしまうので、昔の姿がよくわからないということがあります。浜松城は史跡としては、真正性が低くて、チート感満載です。静岡市の駿府城の場合は堀が残っているので理解しやすいですが、浜松城は堀が残っておらず、その様…
武田vs徳川(+織田)の「三方ヶ原の戦い」の前哨戦が「一言坂の戦い」なら、そのまた前哨戦が「三ヶ野の戦い」です。三ヶ野(みかの)は、磐田市の東側に位置します。 大日堂 その際、徳川方(本多忠勝)が、東からやってくる武田方を物見したというのが大日…
見付(磐田市)は遠江国の中心で古来から国府が置かれていました。 家康による見付の築城 1567年、徳川家康は遠江の国に入った後、引馬(浜松城)に拠点を定めました。しかし、その前に見付(現在の磐田市)に大規模な築城を試みたと言われています。この城…
浜名湖の舘山寺(かんざんじ)近くにある堀江城。大沢氏が鎌倉時代に築城したと言われ、戦国時代になると、大沢氏も今川氏に支配されたことで、今川氏の城となりました。徳川家康が三河から遠江に侵攻した1569年、大沢基胤(おおさわもとたね)は遠江におけ…
2005年までは、天竜市と呼ばれていた浜松市天竜区の天竜二俣地区。その前には二俣町と呼ばれていました。行政区画の名称や範囲が変更になると地域のアイデンティティを捉えるのがなかなか難しいところです。 天竜市 - Wikipedia ここにある二俣城(ふたまた…
凧といえば、浜松の大凧。遠州地方では、袋井の丸凧、大須賀の遠州横須賀凧といった凧も知られています。特に冬に海岸部で風が強い「遠州のからっ風」を利用した凧。 そして、戦国時代には軍事目的に凧が利用されたと言われています。 浜松まつりの凧揚げ合…
徳川家康に攻められた今川氏真が最後に朝比奈氏のもとで籠城した掛川城。 後に土佐藩主となる山内一豊が城主として10年間過ごし、戦後初の木造再建された天守で知られる掛川城。関ヶ原の戦いの前には、小山評定で山内一豊が掛川城を家康に提供するという発言…
徳川家康が高天神城攻めのために作らせたという横須賀城。 この城は、平城で、明治維新まで使われていた城です。 天竜川より運んだという玉石垣を用いた築城に特徴があります。 この城のすぐ南は遠州灘。遠州灘は太平洋そのもので外海なので波も常に高く、南…